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自由研究ノート「岡田以蔵の肥前忠広」

椋川みつはさんの『岡田以蔵資料読本』を読みました!何度も売り切れで買い損ねてたんですが、ようやく手にすることができました。

FGOをきっかけに岡田以蔵の関連資料を集めた方による本で、いろんな人物の日記に登場する岡田以蔵の記述や、武市半平太の獄中から手紙における岡田以蔵への言及など、さまざまな資料の名称・所蔵元・閲覧方法・概要が紹介されています。

この中に岡田以蔵の刀、肥前忠広に関することも(少し)紹介されています。「以蔵の刀」を特別に調べたことがなかったので、今更ながらの「そうだったの!?」ということも多くて……というわけで、自分の持っている情報と合わせ、覚え書きとしてまとめておこうと思います。

「以蔵の刀」に関する3つの情報

①天誅見聞談

1つは「天誅見聞談」。武市半平太の血盟同志にも加入していた五十嵐敬之が、明治末、73歳の頃に語った「当時の裏話」をまとめたものです。こちらは「武市瑞山関連文書」内に収録されており、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも見ることができます。

日本史籍協会 編『武市瑞山関係文書』第二,日本史籍協会,1916. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1917654 (参照 2024-02-04)
日本史籍協会 編『武市瑞山関係文書』第二,日本史籍協会,1916. 国立国会図書館デジタルコレクション 291コマ (参照 2024-02-04)

「私が覚えております最初が本間精一郎の暗殺で、これは閏8月20日の晩のことで、岡田以蔵と田中新兵衛らがやったのであります。以蔵が坂本龍馬の佩刀・肥前忠広を借りて差していましたが、この時門の扉に切りつけて帽子が折れたということを聞きました。その刀が、今東京・九段の遊就館に陳列されているとのことであります」

②伝 龍馬脱藩時の刀「肥前忠廣」(一部)

「天誅見聞談」に「以蔵の肥前忠広は東京の遊就館に陳列されている」という話がありましたが、それに該当する可能性のある刀(の一部)が、2022年5月に高知の「龍馬の生まれたまち記念館」で展示されました。これが2つ目の「以蔵の刀」に関する情報です。

龍馬の生まれたまち記念館

これは坂本龍馬が脱藩時に携え、岡田以蔵が暗殺に使ったものと伝わりますが、研究がほとんど進んでおらず「伝」、すなわち真贋不明の状態。所蔵元である龍馬の生まれたまち記念館も「真贋が分からない以上、当館としては慎重な姿勢です」としています。

コーナー展(2022年6月3日まで)公開の資料について | 龍馬の生まれたまち記念館

というわけでまるまる信じられる資料ではないのですが、一緒に展示されていた由来書には

「岩神昇 遊就館出品 短刀一口(〜なんか書いてあるけどよく読めない〜)元長二尺六寸 銘肥前忠廣ナリ」
「以蔵 本間精一郎を京都に斬り 平井収二郎之を収めて短刀となす」
「収二郎死に賜へ之に和歌一首を添え井原應輔に遺す」

というようなことが書かれています(目視で読んだものなので読み違いがあるかも)。

「天誅見聞談」にも「本間精一郎を斬って折れたものが、今は遊就館(靖国神社にある展示施設)に展示されている」とありましたが、このくだりは一致しているようです。何にしても、今後の研究を期待したい資料です。

なお、その「伝・肥前忠広」はとても小さな刀片でした。詳しくは当時のレポートをご覧ください。

③武市の獄中からの手紙

そして3つ目、これが一番信憑性の高い資料でしょう。武市半平太(瑞山)が、獄中から島村衛吉(血盟同志の仲間で、武市の親戚)に出した手紙にこのようなものがあります。

日本史籍協会 編『武市瑞山関係文書』第二,日本史籍協会,1916. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1917654 (参照 2024-02-04)
日本史籍協会 編『武市瑞山関係文書』第二,日本史籍協会,1916. 国立国会図書館デジタルコレクション 41コマ (参照 2024-02-04)

「京都で七兒(※以蔵のこと)の折れた肥前の刀を朝尊に焼き直させ、長い脇差にこしらえてある。我が家に置くと都合が悪いので、島村家で預かっていただきたい」

すご〜く今更なんですが「南海太郎朝尊、ここで出てくるんだ!」ってびっくりしちゃった。これは慶応元年(1865)2月25日の手紙で、岡田以蔵が京都で暗殺をしていたのは文久2年(1862)、本間精一郎の暗殺を見ると1862年の秋ごろ。2年ほどかけて修理と発送が行われたようです。長納期だな……(普通なのかな?)

こちらも天誅見聞談と同じ「武市瑞山関係文書」に収録されており、誰でも閲覧が可能な資料です。この頃武市半平太は「以蔵の暗殺は自分が指図したものではありません、以蔵が勝手にやったことです」との供述を繰り返している時期で、以蔵の刀が自分の家に届いちゃうとまずかったのかもしれません。

なおここでは「肥前の刀」としか記述がないため、肥前忠広かどうか、それが坂本龍馬から借りパクしたものかどうか、といったところまではわかりません。ご留意を。

南海太郎朝尊、武市半平太、岡田以蔵、坂本龍馬 生没年

そして上で南海太郎朝尊の名前が出ましたので、これまた今更なんですが、土佐出身の4人(南海太郎朝尊、武市半平太、岡田以蔵、坂本龍馬)の生没年を並べてみました。

土佐年表

見づらい画像だよね〜ごめんね!(Google スプレッドシートでも見れるよ)

南海太郎朝尊は高知の佐川出身。朝ドラで一躍有名になった牧野富太郎博士と同郷です。江戸に出て刀を作っていましたが、安政5年(1858)、安政の大獄の少し前に地元に戻っています。

南海太郎朝尊鍛工房跡

工房跡の看板にはそこまでしか書かれてないんだけど、その2、3年後には京都に行っちゃったみたい。文久元年(1861)に京都・幡枝で作刀した刀が残っています。

ただその前年、万永元年(1860)に高知県の端っこ・宿毛にて「武市半平太が南海太郎朝尊の刀を購入した」という話が宿毛市史に収録されています。もしこの時期にまだ朝尊が高知に残っていたのなら、かなり「直」に近い売買だったのかもしれないよね、と思って楽しいです。

そして岡田以蔵が何人もを暗殺したのは文久2年(1862)。武市の獄中からの手紙によれば、この時使われた以蔵の刀の修理を、当時京都の幡枝で活動していたであろう朝尊に頼んでいることとなります。これは武市が宿毛で朝尊の刀を買った2年後のこと。

朝尊自身も「思想家や志士(佐久間象山・吉田松陰・梅田雲浜・頼山陽等)と交わり勤皇の志が篤く、身の危険を感じてか」安政の大獄の前に帰国したとされます。単なる腕の良い刀工なだけではなく、「同郷の、考えの近い、自身も実際に使って品質に納得している刀工」という何重もの信頼があったのかもしれません。この頃もう本も出してるしな、朝尊先生。

ちなみに、幡枝は(時代がまったく違いますが)国広のゆかりの場所でもあります。国広関連で訪問したことのある場所が、朝尊の話で再び出てきてびっくりしちゃったなっていう思い出。

ともかくも、京都で「以蔵の肥前の刀」が折れて、修理して土佐に送られて……ってところまでは本当だと思うんですよね。その後がどうなったのか。この武市さんの手紙の時点では「長めの脇差」なのに、現存する伝・肥前忠広は「短刀となす」なのも不思議。全くの別物なのか、もし本物だとしてどうしてここまで小さくなっちゃったのか……

今後の研究が楽しみだなあ、って思います。

参考資料について

改めまして椋川みつはさんの『岡田以蔵資料読本』を大変に参考にさせていただきました。同人即売会ほか、BOOTHでも頒布していらっしゃいます。ちょくちょく再販してくださるので見ておくとよろしいかと存じます(Twitter→@oidokuhon)。

その他、年表中の坂本龍馬のトピックについては「全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙」宮川禎一著、2012年を参考にしています。あとは随時該当箇所に出典のリンクをつけていますので、ご確認ください。

ここまで読んでいただいてありがとうございました!