幡枝八幡宮

幡枝八幡宮

叡山電車に乗って、木野駅へ!

こちらでは幡枝八幡宮さんに立ち寄るのが目的です
刀工・堀川国広のゆかりのお宮さんです

無人駅を降りるとこの案内が

妙満寺 北稜高校

この妙満寺さんとだいたい同じ敷地にあるので、
この矢印の言うとおりにてくてく歩きます

線路沿いの道路を歩いてもいけそうだったのですが、
いまいち道に自信が無いので
高校の裏手に沿って流れている川沿いに、
ぐるっと歩いてみます

川

これは鷺ですかねー?
「蛍のいる川です!ごみを捨てないで!」
との看板もかかっていました
用水路かなーとか思ってましたごめんね←
けっこう清らかな小川のようです

川沿いに歩く道はわりと住宅街。
明らかに地元のちいさい八幡様感ですね~
ぜんぜん観光地ではないですね~わかってます

川沿いの道が大きめの道路にぶつかったところで左折して、
左手のお山のほうに向かいますと

幡枝八幡宮入り口

とりあえず発見できたヨカッタ!!!

山桜

すごく立派な山桜がありました
樹齢どのくらいかなあ・・・国広の時代からあったりして・・・・

「この石段を登り切ればあの日のわたしがいる」

住宅地+お山になっていることもあって、
とても静かでした

柴山玲さんの前山にてって歌があるんですが、
そんなイメージの場所でした

本殿

社務所は無人ではなかったようなので、声かければご朱印いただけたかもですが、
チキってできなかったですね~・・・
まあお昼時だったし迷惑になるからそれで丁度良かったかもしれませんが

こちらが公式のHPのようですね
岩倉幡枝八幡宮

こちらも旅行前に参考にしたブログです
京都のITベンチャーで働く女の写真日記

こちらによると、神功皇后や応仁天皇が祀られているんだそうです

神功皇后はイザナミやアマテラスに次いでパワフルな女神だとわたしの中で話題なので、
そのうちちゃんと文献読んでみたいな~とは思ってるんですけど、
オタクが忙しくてなかなか手が回らないです

そんでこの幡枝八幡宮は、そんな三韓征伐のなんやかんやで大変な時に、
この幡枝村を守りましょう!ってことでできた神社なんだとか

ちなみにこちらが境内にあった由来縁起の看板

幡枝八幡宮社略記

幡枝八幡宮杜略記

祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)
息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)

城州愛宕郡幡枝に鎮座まします八幡宮と崇め奉るは、人皇59代宇多天皇の御宇、寛平6年新羅国の夷賦等我邦の西境を犯さんとせしこと有し頃、我里人に信託ましまし、皇都及び人民守護のため、此の地に鎮座したまわんの神告ありて、正しく影向なしたまいしかば、官に秦した御社を創営し、神告を蒙りし輩守護し奉りしより以来、神威日日に新に夜々著るしく、その霊応を蒙ることを挙げて員がたし、之によって御代々々の天皇御尊崇ましまし、種々御神宝及び金帛御奉納なし給ひ、執中、後水尾天皇殊に叡尊厚く、神田を御奇附あらせられ、近くは桃園帝、後桜町帝よりも数々祭具数々御寄附ましまし、今の菊御紋の吹散、御鉾なども其の一つなり。
尚又、御社および神輿等御修復の節々も、御所々々御銀を下しおかれ、堂上方よりも夫々、御寄附相せられ、年々祭式数度の中にも、八月御祭には御所々々堂上万より御初穂を御寄附したもう。
尤も御神札をも四季に納め奉る処なリ、

ここまでは先ほどちらっと書いた、神社のそもそもの縁起についてですね。
神功皇后のことや、お祭りのことが書いてあります。

この縁起の、半分くらいを割いて国広について書かれております・・・!

また中古、刀鍛冶一条国廣鍛の道に秀んことを此御神に願い、日々に歩を運び冥助を祈り奉りしに、その大顧成就の奉賽として、慶長4年の秋、当御山の麓なる石清水といへる流の清泉を以て、神前に於て、一振の御刀を鍛え、神扉に備え奉りしを、後水尾帝聞召され、叡覧あるべき仰を蒙り神主等守護し奉げ奉りしに英感のあまり宮中に少頃とどめ置たまひ、黄金作の御拵を命じたまひ、唐裂の御太刀袋に納め再び御寄附になり給ふ。
則ち神宝第一とす斯。
高貴の御尊崇座も、全く神験著が故にして仰も中々愚なり。
原から文武の高運を守りたもう御神なれば、貴きとなく賤となく日々に尊信したまわんには、士農工商ともその職業に出世繁盛し、家内安全和睦して、子孫長栄諸望満したまひ、殊に剣刀を鍛う人々に、その道に秀で英名を挙げたまわんこと、何の疑ありなん。

毎度お世話になってる刀剣幻想辞典によると、
九州日向飫肥城主の伊東家の家臣でしたが、
伊東家が1577年に没落。
のちに少年使節団のひとりとして教科書に名の残る伊東マンショにつき従い、
各地を転々としていたそうです
この時期のことを山伏時代と呼ぶのかな?

「山伏之時打之」の銘の入った山伏国広を打ったのは天正12年ですので1584年です。
天正18年庚の領主の顕長の求めに応じて打ったのが、「山姥切国広」。
天正18年は1590年ですね。

こちらの刀剣杉田さんのサイトによると、
天正19年の短刀に「在京時打之」とあるため、1591年には京都にいたみたいです。

(このへんのソースはwikipediaなのですが、
このページは参考文献ちゃんと載ってるのでわりと信用できるかな~と思います)

足軽大将として殊勲をたてて感状と吉広の槍を拝領した、とのことなので、
武人としても腕に覚えのある方だったみたいですね

なんかとっても盛りだくさんの人じゃんめっちゃドラマチック・・・・

幡枝八幡宮の縁起にあった慶長4年、1599年ってどんな時代だったのかな~って調べたら、
慶長元年に秀頼が元服、
慶長5年に関ヶ原の戦い、
慶長8年に家康による徳川幕府の開幕、
慶長19~20年に大阪冬の陣、夏の陣
・・・と、戦国時代の残りかすを家康が大掃除して、
歴史が大きく変換するまさにその時代なんですね・・・スゴイ・・・

なんかこう、刀工国広って人物にフォーカスした大河ドラマ作ってほしい勢いです・・・・

ついでに縁起にさんざん書かれてる慶長4年に打った刀ってどんなのかな~と調べてみたのですが、
ネットでちらっと調べた程度ではそれっぽいものみつけられませんでした・・・きになる・・・・・

刀工、山伏、武人といろんな顔を持った国広ですが、
教育者としても優れていて、数多くの門下生を育てたとか・・・

刀工国広って人物にフォーカスした大河ドラマ作ってほしい・・・・(二回目)

ちなみに堀川一条のあたりもこの次の日に行ってみたんですが、
そこから幡枝までめちゃんこ遠いんですよね・・・
どうやってここまで来たのかしら・・・
やっぱ馬くらい乗り回せた感じなのかな・・・
めっちゃ体力ある人だったんだろうなあとか思います

そういえば、ここに来るとき目印にしていた川、
あれも蛍のいるような綺麗な川でしたが、
この幡枝の山の清水で刀を打ったんでしたものね、
あの川もその流れを汲んで綺麗な川なのかしら・・・・
なんて思うと、用水路(失礼)も見る目がだいぶ変わります

刀工国広の人生に思いを馳せると止まらない!
神社自体は小さく小ぢんまりでしたが、関連情報があればいくらでも楽しめますね!

このあとはこのまま伏見まで電車を乗り継ぎ、
寺田屋や藤森神社のあたりを練り歩きます!

この記事はにわか刀剣ファンの聖地巡礼記からお引越しした記事です。