豊国神社

京博来たら寄ってって!京都東山 豊臣めぐり

現在(2023年1月)、京都国立博物館にて笹貫が展示中!

近隣には豊臣関連の寺社が多くあるので、ちょろっと歩いて紹介したいな、って記事です。

養源院

養源院

京都国立博物館の道を挟んだ向こう側にあるのが、成人の弓矢のニュースでよくテレビにも映る三十三間堂。そのひとつ隣にあるのが「養源院」です。

養源院は秀吉の妻である淀(茶々)が文禄2年(1593)に「亡き父・浅井長政のために寺を建てたい」と申し出て、作られたお寺。翌年文禄3年5月に建立されました。ちなみに文禄2年は豊臣秀頼が生まれた年でもあります。

しかしその約20年後には秀頼を総大将とした大坂の陣が勃発。秀頼、淀もろとも命を落とし、豊臣家は滅亡します。養源院は建立者の淀が死んでしまったことや、火災による建物の焼失などで衰えてしまっていました。これを淀の末の妹……浅井三姉妹の三女、江が元和7年(1621)に再興しています。

江は2代将軍・徳川秀忠に嫁ぎました。江からすれば、自分の夫や舅が姉を死に追いやったわけです。姉の建てた寺を再興したことには、彼女の菩提を弔う意図もあったと思われます。

養源院

またこの再興の時に建築用材として、伏見城の古材が使用されています。鳥居元忠が壮絶な死を遂げた伏見城の戦いの血痕が残る「血天井」があり、そっちで有名ではあるんですが、わたしとしては淀と江の曲がりくねった姉妹の行く末、みたいなところが好きで。

……で、まだ行ったことがなかったので見てみたかったんですが。

養源院 2023年年始拝観予定

ざんねーん!この日(1月4日)は拝観休業でした。とはいえ京都国立博物館のすぐ近くですから、また近くにくる機会もあるでしょう。次の機会に。

こんなところに池田屋

養源院から智積院方面に回ろうとしたら、こんなものを偶然発見。

寺田屋事件もうひとつの舞台地

池田屋事件の時、この辺りに坂本龍馬がいたんですって!

寺田屋事件もうひとつの舞台地

おりょうさんと出会ったのもここ。

寺田屋事件もうひとつの舞台地

裏付けする資料がなかったんだけど、北添さんの書簡によって「どうやらここらしい」と分かったんだって。全然知らずに前を通って偶然見つけたから、面白かった……

智積院

智積院

続きまして智積院。養源院から大通りに出てすぐのところです。

ここは現在は「智積院」という名前ですが、昔は「祥雲禅寺(祥雲寺)」というお寺があった場所でした。

智積院

「祥雲禅寺(祥雲寺)」は豊臣秀吉が建てたお寺。幼くして亡くなった息子、鶴松(捨)の菩提を弔うために作られたお寺でした。そしてその客殿内部を飾ったのが、長谷川等伯一門による障壁画。これは現在(2023年1月)東京のサントリー美術館で展示されています。

祥雲禅寺は鶴松の三回忌となる文禄2年(1593)には竣工したと考えられており、障壁画群もまた同時期には完成していたと推測されています。……っていうと、淀が養源院を建立したのと同時期ですね。秀頼という子どもが生まれた時期ではあったけど、とむらいにもう一度向き合う時期でもあった、のでしょう。

秀吉の死後、この寺は無住(おそらく「住職にいない寺」の意)になります。そして約20年後、大坂夏の陣で豊臣が滅んだ後、家康はこの土地を別のお寺に与えました。

智積院

それが「智積院」。智積院はもともと和歌山の根来寺山内にあったお寺で、僧兵集団・根来衆の拠点と位置を同じくしていました。根来衆の懐柔作戦に失敗した秀吉は根来攻めを強行、これに伴い智積院も焼き討ちにあっています。

家康は秀吉によって焼かれたお寺を、秀吉が弔いのために建てたお寺の跡地に呼び寄せて、土地を与え、壮麗な建物を与えた。なんかそれは……何で?って思っちゃう。なんでだろう、それはそんなに重要なことではなかったんだろうか。すごく嫌味ったらしいっていうか、当てつけみたいって思うんだけど。

智積院

智積院

そんなところをもう少し自分のものとして引き寄せて考えたくて、実際に智積院にきてみたけれど。確かにパンフレットには秀吉が云々のことは書いてあるんだけど、寺内にはむしろ家康ことだって特に出てこないし、ひたすらに仏教の場所という感じ。名残もよすがも何もなく、ただ今の在り方でひたすら在る、という感じ。

智積院

智積院

「拍子抜け」って言ってしまってはきっとダメなんだよな。誠実に仏門の場所としての在り方を貫いている、そんな風情の場所だった。結局家康のやったことって別に大したことではなくて、わたしが勝手に感傷的になってるだけなんだろうか。わからないな、と、そういうことを思いながら歩いていた。

智積院

智積院

庭園のエリアだけ有料、300円でした。

智積院

智積院

レプリカの楓図が設置されてる。

智積院

だけどそうは言っても、わたしはきっとこの先も楓図を見るたびに豊臣の人間たちのことを考えるし、秀頼はこれを見たのだろうかとか、秀吉は納品されたこの絵を見て何を思っただろうかとか、そういうことを考えるんだろうな。そんなことを思った。

智積院

豊国神社

豊国神社

京都国立博物館の方に戻ってきて、みんな大好き豊国神社へ!骨喰藤四郎の所蔵元でもあります。本当にこのエリア、そこらじゅうに豊臣関係があるんです。

豊国神社

お手水は蓋がされてましたが、かわりに金の瓢箪が水出してました。

豊国神社

そしてこのすぐお隣が、方広寺。

方広寺

方広寺

この鐘の銘文が徳川の不幸を願った内容だ、と難癖をつけてきたことで大坂の陣がスタートしました。今の方広寺はでかい鐘とお堂があるだけですごく簡素なんだけど、往時はもっと立派だったのだろうか。

京都国立博物館 方向寺の遺構

これは京都国立博物館の建物の前にある看板。京都国立博物館のあたりまで、方広寺の敷地だったみたいです。その頃の姿を見てみたいと思う。

方広寺

問題の銘文のところをマーキングしてくれてます。

方広寺

ちなみに今は、お正月エディション。

方広寺

ささやか〜に正月飾りがある。

豊国廟

豊国廟

今回は行かなかったけど、ここから少し歩いたところに豊臣秀吉のお墓、豊国廟があります。そして実は、秀頼の息子のお墓もある。

豊国廟 豊臣国松公御陵墓

豊国廟 豊臣国松 墓

気が動転して撮れてない写真(矢印つけてる方が国松の墓です)。

秀吉のお墓はえぐめの階段登らないと行けないけど、国松のお墓は階段の下なので、よければお参りに行ってみてください。

大坂城が落城した時、国松は8歳。残党狩りの徳川側に発見され、発見の2日後に六条河原にて処刑されます。家康の側近が書いていたと考えられる「駿府記」では、この子どものことを「容貌美麗」と書いています。「この子は殺されるんだろうな」とわかっていただろうに、そんな子どもについてわざわざ「容貌美麗」と書き記したのって、なんでなんだろう……ってずっと思ってる。

東山は豊臣めぐりコスパが良い

そんな感じの、東山豊臣めぐりのススメでした。たぶんわたしの知らない豊臣ゆかりの地はまだあるんだろうなと思う。お近くに行く機会があって、豊臣に興味がある方は、ぜひ巡ってみてください。

ここまで読んでいただいてありがとうございました!

松原橋

帰りに渡った松原橋。京都の五条大橋には牛若丸と弁慶のモニュメントがありますが、今の五条大橋は秀吉が架け替えた新しいもの。平安時代の五条大橋は今の松原橋(五条大橋と四条大橋の間にある橋)にあたるんですって。