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【観劇記録】ミュージカル刀剣乱舞 陸奥一蓮

今回のミュ、割と加州が心覚における水心子的な役割だなって思ったんだけど、そもそも加州は元祖「刀ミュの主人公」だったなって原点回帰したようなとこある

刀ミュにおける「疑問を持つひと」は加州→水心子→大包平って感じで継承されてたんだなあって。もっと遡れば山姥切や鶴丸もそうだったのだろうなあって思うけど。

そういえばとーけんらんっ♪のアレンジが大好き侍なんですが(壽以降公演ごとに使われてる楽器などが違うので)、今回は割と初期オブ初期のノーマルとーけんらんっ♪とほぼ変わんないやつだった気がする。真剣必殺乱れ打ちもあり、あつかしトライアルまで原点回帰したなあって感想。
お話としてはそんなに進んでいないけど、回収する前の助走みたいな回だったのかなと思う。
会場にご列席の歌仙兼定初期刀審神者のみなさま〜!!!!!(わたし)

これまでの公演は本筋が1本(歴史の話)だったけど、今回は本筋が2本(歴史の話と本丸の話)だった印象。本丸の話はよくわかったんだけど、蝦夷の方はちょっとしこりが残る感じ。「マイノリティが、自分たちの誇りのために死を選んだ。これは栄誉の死である」とマジョリティが、後世の人間がそれを創作して語るのは良いのだろうか。

でもそれは平将門の生き様を代弁した心覚にも言えることなんだけど、でも心覚ではそういうことは思えなかった、そこの違いはなんなんだろなあ……コロナ禍という同時代性があったからだろうか(彼らがそう生きざるを得なかったように、私たちだってこのどこにもいけない世界の中で、こうやってこの生を走り切るしかないのだ、きっと未来の誰かから見たら哀れな生き様だったとしても)とも思うけど、筆力の違い、ってところに帰結してしまうのかもしれない。もっと細かく検証するにはもう何度か見る必要がある、おそらく。

見ながら、本当ならアイヌや琉球の物語を描きたかったけど、そこに触れるのはチャレンジングすぎるから資料が少なく創作の余地が大きい蝦夷を選んだのかも、などと思ったりした。

やひこと父がいつか未来の蝦夷の地で手を繋いでいたさま、ひとつはちす、と思ったし、
同時に義経の辞世の句を連想したりした(後の世もまた後の世もめぐりあへ)。
あの本丸に生まれ変わりがあるのなら、折れた刀も、という示唆でしょうか。もうそろそろ一思いに殺してほしい(会場にご列席の歌仙兼定初期刀審神者のみなさま〜!!!!!)。

でもね「刀を交えて戦うと、もう戦いなんてしたくないと思う」というの、「人殺しの道具である俺たちは、間違いか?」に対するひとつのアンサーだなって思った。刀は殺傷の道具だけど、死を最も身近にし、命を最も身近にする利器でもある。

あと関係あるかわからんけど新潟の彌彦神社には神主が夷を退けたときに取得した夷太刀というのがある。

なおこの日は朝5:30から仕事して10時から春コミに1時間だけいて、水道橋に移動して観劇してアフターに合流した。忙しい1日だった。