らあて桂浜

【文久土佐から令和土佐へ】維伝も見たことだし吉行も展示されてることだし土佐に行きました【その2】

2019年11月30日(土)、高知駅でレンタサイクルを借りて1時間チャリを漕いで桂浜・坂本龍馬記念館までやってきました!

高知県立坂本龍馬記念館

維新十傑 ー創造・行動・志ー

坂本龍馬記念館では維新の十傑をテーマとして展示を開催中。音声ガイドを刀剣乱舞・陸奥守吉行役の濱さんが担当しています。そして陸奥守吉行も展示中!

土佐弁でガイドしてくれるのでまんまめちゃくちゃ陸奥守吉行でした。思い入れの強い皆様は展示室でしくしく泣くことになると思う。音声ガイドは貸出時に1000円お預けしますが、返却時に戻ってきますので無料です。無料でええんか。

展示は12月10日までと日付が迫っております。わかるだろ「ワーーーッ!!!となって行きたくなっちゃった」感が。

では、気になったものを箇条書きでレポします!

15代山内容堂の藩主就任についての問題

土佐藩の藩主を務めていた山内家ですが、13代、14代が相次いで急死してしまいます。当時「死んでから後継を決める」ことは認められておらず、1代ならまだしも2代続けてではお家取り潰しや石高を減らされてもおかしくないことでした。

その際、親戚筋である薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城が山内家のために尽力してくれ、また老中の阿部正弘も理解を示してくれた結果、なんのお咎めもなく山内容堂が15代として就任することができました。

これは初代の山内一豊が加増を受けて土佐一国を与えられたことと同じくらい、徳川幕府へ恩義を感じる要因となったとのこと。

幕末の時代、土佐のお偉い方は「幕府に恩があるから倒幕なんてとんでもない」、一方土佐勤王党は「尊王攘夷じゃ!」と対立するわけですが、その土佐のお偉い方がなぜそこまで幕府に恩を感じるのかがしっくりきていなかったんですよね。200年前のことを未だに義理立てするの?って。自分の代でそういうことがあったというなら理解ができるな、って思ったのでした。

龍馬佩用脇差 備前國住長船次郎左衛門尉勝光左京進宗光/永正二年八月吉日

今「むねみつ」って打ったら「宗三」が出てびっくりしたわ…そうかそう入力すればサクッと出るのか…

龍馬が一番愛用していた脇差と伝わっているものです。永正二年は1505年なので立派に古刀ですね。ちょっと屈むと刃文がめっちゃ見えました。長船だねー!って感じ。

ギメ東洋美術館 勝光
 

これはフランスのギメ東洋美術館に展示されていた勝光。龍馬の佩刀は勝光と宗光の共作です。

甲藤馬太郎佩用刀 於土佐國筑前左行秀/嘉永元年申秋 應阪本直方需造焉

これはもともと龍馬の持ち物だったのですが、甲藤馬太郎という人に譲った刀。綺麗な直刃で、ほんのり筆で掃いたような映りがあるように見えました。結構長くて、実戦というよりは見栄を張るための刀かなという印象。

銘は「土佐で筑前左行秀が嘉永元年の秋に阪本直方さんに頼まれて作ったよ」という意味。

嘉永元年は1848年、龍馬が14歳の年。龍馬が土佐の小栗流剣術を始めたのはこの頃と伝わっています。阪本直方さんは龍馬の21つ年上の兄、権平さんのこと。「剣術の稽古を始めたばかりの弟に刀をオーダーしてくれたのかな?」と音声ガイドでは語られていました。

そしてこれを作った「筑前左行秀」。展示室で見たときは「左文字の末流なのかな?」とだけ思ったのですが、この後龍馬さんの生家跡地に行ったとき、案内看板にこんなのが。

坂本龍馬誕生の地 近隣の史跡

ご近所さんじゃーん!

なんかすごい、坂本家の生活が見える。物を語る刀だったよ。

坂元弥太郎筆 土佐勤王志士遺墨展出品控

昭和4年に、坂本家の子孫が遺品を展示会に出品した時のもの。吉行をはじめとした遺品の説明が書かれており、ここに「吉行は釧路の火事で被災して鞘がなくなり、反りがなくなった」「これが龍馬が殺された時に携えていた刀である」の旨が記載されています。

情報としては知っていることでしたが、それの出典となるものを見たのは多分今回が初めてでした。吉行が龍馬の刀であることの証書のようなものです。これはこの前の侍展で骨喰を大友からもらった時の「嬉しいぴょーん」的な秀吉のお手紙を見たのと同じような感慨がある。

龍馬佩刀 吉行

さて、僕らの陸奥守吉行。

もう何度も見ているので今更何がどうとかもないのですが、北海道で火事にあったために反りがなくなり、被災した後に直刃の化粧研ぎを施したため、もともとあった「拳形丁子」がかなり見えづらくなっています。

今回は「ここら辺で見えるよ」のガイドがあり、低くかがんで物打ちのあたりを見ると拳形丁子をよく見ることができました(刀剣の展示、かなり心を配ってくれている印象。どの刀も屈むと刃文を綺麗に見ることができました)。

龍馬が寺田屋事件の後に「これから一層危ないことも増えるだろうから、国事の困難に臨むときは家宝の刀を持っていたい」という手紙を兄・権平あてに送っていたことは知っていましたが、同じ日付の実家全員宛の手紙に「刀は2尺2寸くらいが一番いいです」という内容を書いていました(メモ取ってないので寸の数字違うかもしれない)。

権平はこの両方の手紙を読んだ上で「坂本家の家宝」で「2尺3寸6分」の吉行を選んだのだろう、というのは今回の展示で初めて知りました。

思い入れも実用性もばっちりだったんだね。

そのほかにも龍馬のお手紙たくさん展示されていましたけど、姉や兄や姪に対して「あれ送ってください」の注文が多いこと多いこと。わたしも姉の端くれですが妹から「あれとそれとあれも送って❤️」ときたらキレそうですけどね。まあうちの妹と違って国事の困難に向かって命がけでバリバリ働いてたもんね、物送るくらいやってやる気になるんだろうか…

それはそれとして春猪ちゃん(姪)に向かって「金平糖の鋳型みたいな凸凹の顔を白粉で塗り込めてますか?」ってお手紙失礼極まりないじゃない?龍馬伝のイメージなので春猪ちゃんは元AKBのあっちゃんで脳内再生されるんですけど「龍馬おじちゃんのバカっ!!」ってなるよね。龍馬おじちゃんのバカ!(声に出して言いたい日本語)

血痕の屏風と掛け軸

龍馬が殺された近江屋、殺されたその部屋にあった屏風と掛け軸です。血痕が飛び散っているその実物が展示されていました。

復元近江屋

館内にある復元近江屋セット。この右手の屏風と、左手の奥にある掛け軸ですね。ここに置かれてる刀は吉行だろうか…

血痕が飛び散っているので血液鑑定もできそうなのですが、現代の技術では「少なくとも1cm四方の血痕」がないと血液鑑定ができなく、それをしようとすると資料を破壊することになってしまうのでしていないんだそう。

ちなみに刀ミュ「結びの響き始まりの音」の冒頭は近江屋事件のシーンでしたが、役者さんがセリフを言う前にセットを見て「あの屏風…!」と思って口を覆ってしまった思い出です。

雄魂姓名録

亀山社中・海援隊の雑記帳で、カステラのレシピなども書いてあるんですが、十数個だけ英単語もメモされています。

その一つが「媚薬(ホレクスリ/ロフポーシュン)」

ぜってえ使わねえだろこの単語!!!という単語が書かれているの面白かったです。なんかノリが中学生男子と一緒じゃん海援隊。

らあて桂浜

音声ガイドの対象のお部屋は真面目な展示室でしたが、本館へ移動すると遊びながら学べるような展示にもなっていました。写真は龍馬さんの筆跡のシールで名刺を作れるやつ。

また、ミュージアムショップでは音声ガイドのテキストも販売されています。前期後期それぞれ50円。50円でええんか。

そのほかの展示室をぐるりと見て回ったら13:30で「えっわたし3時間もいたの…?」と驚愕しました。

じっくりたっぷり幕末を泳いだところで真昼の浜辺へ、というところで今回は一度切り上げます!午後の観光については次の記事でお話しさせてください。

龍馬記念館の吉行の展示は10日まで!日にちが迫っていますが、土佐に久々に里帰りした吉行をぜひ見に行って、陸奥守吉行の声でその物語を聞いてください。

ここまで読んでいただいてありがとうございました!何かの足しになっていれば幸いです!