伏見稲荷 千本鳥居

寺田屋跡、藤森神社

龍馬のあしあと、寺田屋

さてさて、京都レポの続きです

幡枝八幡宮のあとは、叡山電鉄から京阪に乗り換え、
京阪の端っこ寄り、中書島までいきました

ここから徒歩5分ほどのところに寺田屋があります
龍馬さんゆかりの場所ですね

伏見

駅を出たところにある看板!
いきなり龍馬さんです
水がきれいなことから、お酒も有名らしいです

柳がきれい

地図によると宇治川派流となっています
この運河を利用した船宿が、寺田屋なんですね

寺田屋

寺田屋

龍馬さんに危険を知らせるためにおりょうさんがすっぽんぽんでお風呂から飛び出した!
っていう話はここでのことですね
このとき龍馬さんはまだむっちゃんを帯刀しておらず、
(高杉晋作に貰った拳銃で応戦したそうです)
この事件をきっかけに身の危険を感じ、むっちゃんを送ってくれるように頼んだんだとか

中に入れるし、ことによっては宿泊もできるらしいんですが、
この日は月曜日で休館日でした
それでもわたしの他にも外観の写真を撮ってる方とかいらしたので、
やっぱり龍馬人気はすごいですね

ちなみに司馬遼太郎の新選組血風禄を読んでいたら、
寺田屋事件とは全然関係ない場面でも、
普通に船宿として寺田屋の名前が登場していました
当時はけっこう有名な場所だったんですかね
新宿駅的なかんじ?どうなんだろ

鳥羽伏見の戦いなんかもあるし、幕末ネタには豊富な場所なんですが、
伏見の戦いは事前学習していなかったので、
そのへんは今回ノータッチでした
もうちょっとがんばっときゃよかったな!

せっかくなので近くの長建寺にも立ち寄ってみました

長建寺

やたらしゃべるおじちゃんにつかまってしばらく立ち話してたんですが、
相当な早口で半分くらいしか分かりませんでした←

でもそのおじちゃんが「ここの水飲んでごらん!飲めるから!」
と教えてくださって、
お手水のお水をペットボトルに汲んでいくことを学びました
伏見ならではってかんじですね

鶴丸のいた場所、藤森神社へ

さて、中書島から4駅京都方面に戻ると、
そこに藤森駅があります

藤森神社の最寄です!

藤森神社

さにわ的には鶴さん目当てで来たところですが、
この神社の建立203年なんですって!西暦の!
ものすっごい古い神社なんですね・・・・

藤森神社由緒

藤森神社のご利益

藤森神社で毎年5月に行わる藤森祭は、菖蒲の節句発祥の祭。
この時に飾られる武者人形には、神が宿るそうです

その事から、菖蒲→尚武(武道・武勇を重んじる事)→勝負となり、勝運にご利益があるとして人気です。

また、藤森祭で駈馬神事が行われる事から、馬関連(※)に携わる人たちからも信仰が厚く、勝馬のご利益を求め多くの参拝者が訪れています。
(※競馬で言うと、馬主や騎手、厩務員、その家族の方々)

京都旅行のオススメ

京都旅行のオススメというサイトさんから抜粋しました
この記事、とうらぶファンじゃない人が鶴丸のことにも触れつつ書いてくださった記事なので、おすすめです!

というわけで、はいっていきなりこれ。

ひと・うま/くるま

地味に面白いな、と。

(このときわたしは足の速い馬をパッと見抜ける鶴さんとか、
競馬で大当たりしてくる鶴さんとかを受信していました)

鶴丸国永自由研究ノート

鶴丸国永

五条国永は平安時代の刀工で五条兼永の子。天喜年間に京都五条に住したため名乗る。
有銘作は太刀3口、剣1口。
三条小鍛冶宗近の弟子と伝わる。

元々は余五将軍と呼ばれた平維茂が所持し、その後秋田城介に伝えたという(詳註刀剣名物帳)

鎌倉頃には安達貞泰が所持。
鎌倉時代後期、弘安8(1285)年11月に起こった霜月騒動で安達一族が滅ぼされた際に、第9代執権北条貞時が入手した。一説に、貞時はこの刀欲しさに貞泰の墓を暴いたという。
(北条 貞時の在職は弘安7年(1284年) – 正安3年(1301年))

名刀幻想辞典より

wikiの霜月騒動のページには、

頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。

霜月騒動

とあります
この秋田城介、人の名前かと思いきや、安達泰盛の官位の名前でした。

安達泰盛の孫が安達貞泰です・・・

んーとなると、年代的に、秋田城介である安達泰盛から孫の安達貞泰に渡って、
そのお墓に一緒に入ってた鶴さんを北条貞時が暴いたって流れですかね?
秋田城介を人名だと思い込んでたのでだいぶ混乱してましたよ・・・

おじいちゃんから頂いた剣だから、きっと大事にしてたんでしょうね
霜月騒動の中心人物は安達泰盛だったのに、その孫の持ち物わざわざ暴くとか
一族郎党皆殺しになったのに追い打ちかけますね北条貞時
それでもそのお陰ですばらしい日本刀が後世にまで残っているので、
けっきょくは良かったんだな、っていうスタンスにわたしはなっちゃいますけど

それがなんやかんやで織田信長の手に渡ります。

霜月騒動が1285年。
信長が桶狭間で今川義元を制して天下人と目されたのが1560年。
300年くらいの間鶴丸がどこにいたのかよくわかりません・・・・
そのまま北条氏に伝わったのかなーと思いましたけど、
鎌倉幕府が倒れたときにほとんどの北条一族が討死、または自害したとか書かれてるから、
そこで誰かしら権力者に人知れず渡った、という感じでしょうか・・・・

のちに織田信長が御牧勘兵衛景則(家臣三枝勘兵衛とも)に与えた。
御牧景則は信長亡き後は秀吉に仕え、1700石を給わる。景則の子信景(四田井清庵)が関ヶ原敗戦で没落する。
この時に手放したのか鶴丸は、いつの頃よりか伏見藤森神社にあった。

名刀幻想辞典より

「いつの頃よりか」とは・・・;
って感じですが、
ここで藤森神社の名前が出てきますね!

御牧勘兵衛は山城久世郡御牧村を領したため、手放すときに付近の伏見藤森の某家が引き受けたとも。

名刀幻想辞典より

との説もあるみたいです 。

藤森神社本殿

本阿弥光温の弟光的の次男は出家して一乗院と称しており、それが貞享ごろに藤森の某家から取り出して藤森神社の神事に貸し出していた。
元禄16年(1703)8月3日付の本阿弥により金二百枚の折紙が付く。
その後、本阿弥六郎左衛門の添え状を付け、森田左衛門という刀屋が「鶴丸国永」という触れ込みで伊達家に納めた。

名刀幻想辞典より

本阿弥家は刀の鑑定で有名な一族ですね、
なんかあちこちでやたら本阿弥の名前は目にします

享保年間までには仙台伊達家に渡っていたという。
伊達家ではこれに定紋である引両入りの金具を付け、鞘にもおなじ紋蒔絵にした太刀拵えを付けた。
伊達家では本阿弥成善に研ぎに出した後、明治34年の仙台行幸のおりに仙台藩主伊達宗基から明治天皇へ献上した。

名刀幻想辞典より

享保は1716年から1735年までの期間で、
伊達政宗は1567年~1636年の人ですので、
あ、被ってないですね!ちらりとも!
調べてみたら仙台藩第5代藩主の伊達 吉村さんが1704年に藩主になっているので、
たぶんこの方の代のときに鶴さんをお迎えしたんでしょう

ひょっこり出てくる幕末要素

そんな感じの鶴丸さんの来歴ですが、 藤森神社、こんな名所もありました

御旗塚

腰痛にいいらしいです
近藤さんもお参りしたとか・・・
実家の母がぎっくり腰をクセにしちゃってるので、
腰痛のお守りをいただいてきました

舎人親王御神前

舎人親王もお祀りしてあります!
日本書紀foooooooooo!!!って勢いづいた神話で卒論書いた系文系です

不二の水と呼ばれる湧水もあって、
こちらにもご近所のおじさんたちがチャリで乗り入れて
2リットルペットボトルに水を汲んでいってました

小さなお社もたくあんあって、かなり見ごたえのある神社でした~!

紫陽花苑

6月には紫陽花祭りがあるそうで、
このへんも見ごろの頃は絢爛な眺めになるんでしょうね

珍道中のこと

ちなみに駅から藤森神社への道の途中にあった喫茶店に、

刀剣男士、見参

こんなの貼ってありました
地味に主張してる(^ω^)

外国人観光客人気No.1スポットもすぐ近く

このあとせっかくなので伏見稲荷にも寄ってみました
2駅の近場です

伏見稲荷

伏見稲荷

伏見稲荷 千本鳥居

せっかく来ておいてなんですが、
わたしお稲荷さんってちょっと苦手だなあ、って思っちゃいました
同じものが所狭しとならんでるのって、なんかぞわぞわする

とか言っておいて、このあと花山稲荷に向かいます!