JR宇治駅に戻り、奈良線で東福寺まで戻ります。最初は「人の少ない清水寺でも見にいこ〜」って思ってました。東福寺で降りて30分くらい歩けば二年坂とかの観光地エリアに行けますから。
しかし黙々と歩いて、京都国立博物館のあたりに差し掛かった時ふと思う。
「豊国廟、今なら行けるのでは?」
豊国廟
というわけで来ました、豊国廟です!
豊国廟は豊臣秀吉のお墓。この写真に写っているのは麓の入り口のところの門で、この奥の階段を上っていったところにお墓があります。街灯のない山道ということもあり、夕方には立ち入りができなくなります。
以前(「ちょっと大阪に観劇に行ってくるだけのはずだったのに気づいたら名古屋と奈良と京都にも行っていた 大阪~奈良~京都編」2017年4月)にも来たことはあったのですが、時間ギリギリだったので入り口で御朱印だけいただいたのでした。
審神者にわかりやすく説明すると、今ここです。
昔はこんなに豪華な建物だったのかな。
8-1ですね。
ボスマスです。現在の地理と照らし合わせるとだいたいこんな感じ。
豊国廟って女子大のあるエリアを抜けてやっとたどり着くんですが、なかなか秀吉にとって嬉しい立地なんじゃないかなと思います。
あと猿も出るらしいです。秀吉。
この時15時すぎくらい。まだ夏至を越して間も無く日が長いので、全然大丈夫!やべえ階段を上って山頂を目指します。
入り口のところにおられる神職さんは往復30分くらいと言ってました。この写真を撮ったのが15:20。
立派な門が見えて「登りきったか〜!?」って思ったらまだ途中でした。この時点で15:28。
桐紋が施されているんですが、花の部分をこんなに丁寧に描写しているのはさすが豊臣秀吉御陵墓という感じです。
登りきってこの写真を撮ったのが15:34。日本で1番大きな五輪宝塔だそうです。
家康の墓所である久能山東照宮は1159段の階段を経た山頂にあり、確か20分くらいで登ったと思うのですが、豊国廟の方がしんどく感じたな。ひたすら端正な石段がずっと続いており、休憩ポイントもなければ踊り場すらほとんどないので、階段に集中するしかないのがしんどいポイントだと思います。
上で少し休憩してさあ下ろうか、と思ったタイミングでちょうど登ってくる人がいたので「お疲れ様です〜(まじお疲れ様ですお互いに〜!)」って声かけちゃった。
豊臣最後の男の子、豊臣国松
ご存知かどうかわかりませんが、わたくしいざなみは豊臣の女(俗称)の端くれでございます。ゲームで新マップが出れば「大坂城!?」と立ち上がり、メディアミックスで新作が発表されれば「夏の陣!?!?」と立ち上がり、そして毎回着席します。さながら往時のノーカネヒラ芸のようなものです。はい豊臣の女着席〜〜〜〜(テンプレ)
それなりに豊臣のことは調べているんですが、これ初めて知ったんですよ。
「国松公御陵墓……えっ国松!??!!?!?!?」
階段を下りきり、帰りに見えるように案内が出ていました。つまり秀吉のお墓まで登る奇特な人でない限りこれの存在を認識できない。知らなかったよっ!!!
豊臣国松は豊臣秀頼(鯰尾藤四郎の元主)の息子、つまり秀吉からしたら孫にあたります。秀頼の正室は千姫(徳川家康の孫、徳川家忠と江の娘、江と茶々(淀)(秀頼の母)は姉妹、つまり秀頼からしたらいとこ)ですが、千姫との間に子はありません。
国松は「庶子」ということで母親が誰なのかはっきりしたことは言えないのですが、夏の陣で豊臣家が滅亡しなければ、豊臣家を継いでいたかもしれない男の子です。しかし夏の陣の後に徳川家によって斬首されます。わずか8歳。
また同じく庶子の女の子もいたのですが、この子は出家することで死を免れます。
「という!認識は!あったものの!墓ここにあるって!知らんかったし!なんで誰も言わんの!!!!」
って感じで気が動転してたのと体力的にもヘロヘロだったのでこんなミスをやらかしました。
右のしか見えてなかったんですよね…
「なんで京極の紋入ってるんだろう?母親が京極の家系だったんだっけ?あとで調べよ」とは思ったんですよ…
左のちっちゃいのが国松公のお墓だったんですよね……
完全に間違えてたのでまともな写真が碌にない。かろうじて戒名のアップだけは撮っていました。
wikipediaと照らし合わせたところ「漏世院雲山智西大童子」が豊臣国松の戒名みたいです。
京極紋のお墓は誰の?
じゃあこの京極の紋が入ったお墓は誰なんでしょう、というお話なんですが。
これは秀吉の側室の京極竜子、松の丸殿と呼ばれた女性のもの。京極高次のきょうだいで、浅井三姉妹とは従姉妹、浅井初(常高院)は京極高次に嫁いだので義理の姉妹になります。なおニッカリ青江は豊臣家から京極家へ贈られたとされます。
なんでその竜子さんと国松くんが並んでるのか。国松くんは庶子…要は隠し子ですね。なので正室の千姫への憚りもあってか、親元から離れた場所で養育されます。初めは秀頼からみて叔母にあたる常高院に預けられ、その後も京極家の関係者の元で育てられたようです。
しかし夏の陣で豊臣陣営は敗北。家康は死の間際に「ソハヤノツルキを西に向けろ(豊臣を封じろ)」と遺したほどに豊臣の遺恨を警戒していましたから、8歳の幼子といえど豊臣直系の血筋の男の子を生かしはしなかった。斬首されたこの子どもの亡骸を引き取ったのが、京極竜子でした。京極の関係者たちで養育してきた縁もあったのかな、と思います。
参考:wikipedia京極竜子、身近な史跡を巡るCHEVY_WALKERのブログ、大澤寺ブログ
なんかここまで書いて思ったけど、この子にはそりゃ鯰尾も思い入れありそうだけど、青江もすごく思いれてそうだなと思う。豊臣→京極と奇しくも同じ道を通ったわけだから……
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